日記のようなものだったり、ほとんど日記みたいなものです。

「どうせ私なんて」という刷り込み


私が実家に居座ってはいけない理由。
実家は恐ろしい場所かもしれないな、って思った。


黙っててもご飯出てくるし、自分の部屋はかろうじてあるし、
エアコンもあるし、綺麗な家だし、快適では?と思えるかもしれないけど

 

お母さんといると、本当に病む。
親の教育って、大事だなと最近思う。


色んな「すごい」と思う人と仲良くなった時
そういう人は、すごく自己を肯定していて、すごく自信がある様が素晴らしいんだ。
そしてそういう人は、家族もそう。小さい頃からの「当たり前」が違う。
例えば、彼氏はすごくナルシストなんだけど、彼の当たり前が違う。
「愛されて当たり前」「家族は味方である」と普通に思っている。

 

私にはそんな「当たり前」はないから、羨ましいなって。

 

 

お母さんは、ちょっと不憫で、ちょっと教養がなくて、でも一生懸命生きてきた人だ。
何回も再婚して、やっと今落ち着いて生きているんだ。よかったんだ。

 

でも、お母さんから私は肯定をもらった記憶があまりない。

 

先日実家に帰った時は、
「あんた痩せてるわね〜、相変わらず下半身は立派やけど!www」

 

久しぶりに言われて、普通に傷ついた。

 

けど、大学卒業までの私は、このようなことは浴びるシャワーのように言われてきたし(根暗とか)

 

いつしか潜在意識のように刷り込みされていたけど
開放されたいなあって思った。

 

 

------------

上海〜蘇州〜南京へ旅行している時
彼氏が「蟹を食べて!」と私に500元送ってくれた。

 

500元も蟹に・・・?
贅沢する自分を知らない自分だから、
こんなの良くない!!!!って、「そんなの不要だよ」って逃げようとする。

 

この時、少しハッとした。

自分を幸せに、好きになるためには、もっと自分を肯定できるようにって思っていたけど、
目の前に、自分にとって意外なチャンスだったり幸運がある時に、
いつも「こんなの自分には・・」って逃げて価値をあげようとしないのは、
紛れもなく自分の選択でしてきたことだと。

 

大人になって、誰かが自分を天へ天へと運んでくれるような甘いものじゃない
自分で、自分の「良い」や「許可」を増やしていかなきゃ。

 


例えば、2万円のコートを欲しいと思って手に入れるとき、
それは「自分にとってふさわしい」と認めるのと同じ。

時給1000円で暮らしています、と生活を作るのは、
「自分はその程度で生きていくにふさわしい」と認めるのと同じ。

 

 

私はあの時、500元の蟹を食べることから逃げてしまったけど、
「食べてみたい」という気持ちを肯定したら、
「500元の蟹を食べる自分をふさわしい」という経験を重ねることができたのかもしれないなあ。

それと、彼がしてくれたサービスを普通に感謝で返せたね。

 

 

500元の蟹からハッとしてついつい考えちゃった。
ありがとう、500元の蟹!

 

次会う時はちゃんと食って帰るぞ。という気持ちでいっぱい。