日記のようなものだったり、ほとんど日記みたいなものです。

思い出すのは他愛もないこと


もう12月。
思い出すのは良かったことと嬉しかったことが多いけれど
苦しかったこともすごくあった。

2017年でもなく、18年でもなく、19年でもなく、
なんで今年に、(なんでこんな遅くまで)
と思うこともしばしばあったけど、全部タイミングでかつ運命なんだよと思った。
今は全部受け入れて、「なーるほど」と呼吸している。

不安も多いけど、
不安を解消するために思いつくことは「甘え」なことばかりだから、
今の不安を大切に解消していくしかないのだと思う。

ーーーーーーーーーーーーーーーー

Googlephotoアプリには「去年の今日」「一昨年の今日」という自動フォルダがあって、開けば、毎日の去年撮った写真・一昨年撮った写真が表示される。

このアプリを取り入れた2018年の時、私はちょっと嬉しかった。
去年の今日と自分が知ったばかりの新しい1日である今日。何かシンクロしている部分があったり、去年と同じように好きな人と「今日」を過ごしていて、去年と今年と。その写真フォルダを開くと必ず「去年と同じ何か」(人・景色・食べ物)があって、何かを確かめるように安心できた。でも来年はどうかな、と来年の「今日」をそっと考えてみるとちょっと落ち込んでしまう、怖さもどこかに常にあった。

そして2020年のほとんどの1年は、去年の「今日」・一昨年の「今日」と通知してくるgooglephotoに表示されている毎日とは違う1日がたくさん増えていた。
3年ぶりに違う景色・違う毎日を過ごしているんだなと感じる。
それは少し寂しくて、なんだか切なくて、
でも同時に、過去を恥ずかしくなるくらい未熟に思える自分がいるから、少しは成長したんじゃないかって思う。(やっとね・・・

意味ある変化と思えているんだけど、どうしてか寂しいのはまだ縛られている自分がいるんだと思う。

 

ーーーーーーーーーーーーーー

 

最近は本当に、思い出すことは他愛もないことだ。と思う。
かつて、はあちゅうさんのAMというサイトで書かれていたエッセイを読んだことがあり、このエッセイを何回も読んでは泣いた。

am-our.com

恋愛中から読んでいて、日記に書いていた。
私は人間関係に不安を抱きがちな人間なので、嬉しかったことをまるでお守りのように残しておきたかった。不安になったら、それを見たり思い出して心を温めるために。

そのためにはビッグデイをたくさん作るべきだと思っていた。
例えば、大きなイベントに行くことや、綺麗な夜景を見たり、すごく遠くまで旅行に行くことなど、記憶に残りそうな目新しいことを詰め合わせたかった。
そのようなことは一通りしてきたけれど、今思い出すことはそんなことより、


ヨーグルトとアイスを買って帰ったら、彼も同じヨーグルトとアイスを買ってきてた時のシンクロ感や、
仕事で疲れてふてくされていた時に、「ご飯作るから、帰っておいでね」というメッセージに泣きそうになったこと。
寒いというと、足に直に貼るカイロを貼り付けてきたこと。(びっくりして笑った)


ストーリーとして残すには短すぎる些細なことばかり。


小さいこと、日常に溢れていることこそが素で、さりげなくて、自然で、大切なんだと思う。
別にこれは恋愛に限る話ではなくて、どんな人とも。


ちゃんと対話して、ちゃんと向き合えて、自分の弱さも伝えられて、
ちゃんと誰かを好きに、自分のことも愛せている状態でいれたらいいな。



がんばろう。
生きる。全部。